物質主義と、文化の退廃

  ヴィクトリア王朝と現代日本の関連性

 「過去はくりかえせない?」そんなことがあるかという調子で彼の声は大きくなった「もちろん、くりかえせますよ!」    ──「華麗なるギャツビー」野崎孝訳


 オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」はとても面白い作品であった。さほど長い作品ではなかったが、一枚の肖像画を中心に描かれる自己破壊的な自己愛には大変強い興味を感じた。ナルシスティックであるほど「美」へのこだわりを感じさせる、たいへん退廃的な感のある作品である。
 以前日本文学の授業で谷崎潤一郎の研究をしたことがあったが、オスカー・ワイルドという人物の名前を初めて目にしたのはこの時であったと記憶している。谷崎はワイルドの芸術至上主義に大きな影響を受け、初期の作品「刺青」において、この「ドリアン・グレイの肖像」のテーマをそのまま持ち込んでいる節がある。すなわち芸術が人間を支配するということ、人間には人格の二重性(隠された本当の自分)があるということ、芸術を見、その芸術を自分自身だと思いこみ、自己を変容させてしまうとことがあるというテーマである。そして二つの作品には共通して普通ではない著者独自の人生観・芸術観・道徳観が描かれている。
 「ドリアン・グレイの肖像」は若さと美を理想として求めるあまり、美しくはあるが、現実から遊離した人生を送る青年ドリアンの話である。そしてこのドリアンには強い自己愛、すなわちナルシズムが存在している。恰もカラバッジオの「ナルシソ」のように、である。「ナルシソ」の青年が陶酔する対照は水面に映った自分自身であり、ドリアンが陶酔するのは肖像画に描かれた自分自身である。
 この作品の最も重要なテーマは人格の二重性であろう。極端に言えば、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』やコンラッドの『闇の奥』、また同時期に著されたアルフレッド・ヒッチコックの「疑惑の影」など、ヴィクトリア朝後期の文学作品には共通して人格の二重性を重要な要素としていると言えるのではないだろうか。二重性を持つ人格を描くことによって、人間性の暗い内面を探ろうとしたのかもしれない。そしてそれが、直後のユングやジクムント・フロイトの精神分析研究とつながるとも考えられる。ユングの深層心理学は少年である自我意識の自分(第一の人格)そして、神や自然と近い老人である無意識の自分(第二の人格)という人格の多重性を説いている。

 前に述べたように、ヴィクトリア朝時代の後期には人格の二重性というモチーフがよく取られている。善と悪は峻別されているが入れ替えは可能であり、大切に守られてきた礼節も人間の弱点の前では損なわれてしまう、そんな退廃的な考え方が社会の主流となってきている。紀元前の詩人ホラティウスは著書『詩論』の中で文学と絵画の類似性を述べていたことを記憶しているが、試みに同時期の写真や絵画(マン・レイやイポリット・バヤールなど)を見てみたところ、やはり退廃的な印象を受ける。オスカー・ギュスタヴ・レイランダーは、「人生二つの途」という作品の中で古代ローマ風の衣装を身につけた役者たちをモデルに画面右手に勤勉や節度、左手に怠惰を表現しているが、これこそがまさしく、当時の社会の退廃振りや人間の二面性を表しているのではないだろうか。
 それではどうして、この時代に斯くも退廃的な文化が繁栄したのであろうか。前述の『ジキル博士とハイド氏』は多分に作者の自伝的な要素が含まれていることは周知のことだが、すなわちこの時代は尊敬される公の生活と幸福な私生活の両立が困難な時代だったのではないか。社会全体が人目につくのを嫌う性癖と、それとは逆の計算されたブルジョワ的な外面という二面性を併せ持ち、社会生活は巨大な偽善となったのである。スティーヴンソンたち、当時の芸術家たちは自分を偽る辛さに耐え、優雅であろうと努力しながらもその作品の中でそれら負の感情を消化していたのではないだろうか。また、現代のわれわれと同じく繁栄と腐敗が表裏一体となった社会に、それらを覆い隠そうとするような頑ななモラルが席巻している中でワイルドは、悠然と唯美主義者としての看板を背負って文壇に登場し、その隠れた二面性を隠し通すことが出来ず、その性癖が世間に知られるに至っては投獄され、国を追われて最後にはパリで屈辱と貧困のうちに客死している。
 ヴィクトリア朝時代は繁栄と退廃の象徴であったローマ帝国時代となんら違いがない。一八六二年までは、公開で処刑が行なわれ、民衆はその模様に興奮していたという。「剣闘」ならぬ「拳闘」試合も人気を集めている。「拳闘」、すなわちボクシングである。形式は違っても、流血に歓喜する民衆の心は、ローマ帝国の剣闘と何ら変わりはない。ロンドンで売春婦ばかりを次々と殺害し、ナイフで死体を切り刻んだ「切り裂きジャック」事件などの、凶悪な犯罪も当時はたいへん頻発している。ローマ帝国をはじめ、古今東西の物質主義社会は、一時の物質的繁栄を謳歌し、享楽に明け暮れた後、一転して衰退、没落、滅亡の運命をたどっていったのは歴史を見れば明らかである。 そして、現代の日本が、それらの物質主義社会の悲惨な歴史を忠実に再現しているということは、言うまでもないことである。これらヴィクトリア朝時代の文学作品は、それを読む現代のわれわれにこのような問題を提示してくれているように思われるのである。

2000.1.10



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