老母妻子を東郡におく中牟の県令です。董卓暗殺に失敗した曹操の志に感じて一緒に逃げることになりますが、泊めてくれた呂伯奢の一家を誤解から皆殺しにした曹操を見限って、一人で落ちのびてゆきます(4)。
 その後東郡で従事をしていましたが、親交のあった徐州の陶謙と曹操の争いをおさめようと曹操のもとへ出向きます。しかし、陶謙配下の張(門+豈)に父曹嵩を殺された曹操のうらみは深く、陳宮は陳留の張貌(ちょっと字が違うんですが)を頼って馬を飛ばしました(10)。そして張貌(上に同じ)に会った際、曹操の留守に兌州を取れと進言して、呂布について攻め込みました。陳宮の補佐で呂布は兌州・濮陽を攻めて(11)、曹操を追いつめますが結局敗れ、陳宮は呂布の家族を守って落ちのぴます(12)。劉備を頼って小沛に落ちついた呂布でしたが(13)、陳宮は劉備の本拠地徐州を取るよう勧めます(14)。
 首尾よく呂布が徐州を取ると袁術が小沛をねらいはじめて、策のない呂布に陳宮は助言をしますが(15・16・17)、劉備、曹操も敵にまわり、呂布はしだいに孤立していって、陳宮の憂いをよそに(18)滅亡の一途をたどって行きます。ついに下ひ(漢字ありません)で陳宮は呂布とともに曹操に捕らえらてしまいます。殺すのをためらう曹操に背を向け、陳宮は自ら首をさしのべて潔い死を選びました(19)。

 賈(言+羽)とは対照的な人物です。優れた人物でしたが、「生きる」ということにとても不器用な人間だったのでしょう。だからこそ同種の呂布に付き従ったのかもしれません。

 軍師としての能力は間違いなくA級でしょう。結果的には滅亡してしまいまいたが、意見を聞かない呂布をうまく動かして、出来る限りのことをしたと言えるのではないでしょうか。唯一の問題点は袁術との同盟を失敗させた点だけです。ただしこの同盟をご破算にしてしまったのは呂布自身で、陳宮には手の出しようがありませんでした。

 最後には郭嘉と荀ケの計略によって曹操に捕らえられた陳宮ですが、なぜ彼は自ら死を選んだのでしょう?呂布に殉じたのでしょうか。それとも曹操に従いたくなかったのでしょうか。私はまだまだ子供なので、彼の真意を理解するにはあと何年か必要なようです。