呉郡の人。孫策の死後孫権が集めた智謀の士の一人で、のちに孫策の娘を娶りました(38)。この名臣も、はじめのうちは脇役の一人といった扱いです。赤壁の戦いの前哨戦では五番手として魏軍と戦い(44)、本番では孫権の命令で後援軍の先手として出陣します(49)。大敗して逃げる曹操を太史慈とともに追撃しました(50)。合肥を攻めて魏の守将張遼に裏をかかれ、重傷を負った太史慈を、董襲とともに軍を出して救い帰ります(53)。のち、濡須口において、魏軍と戦う呉軍の加勢に水軍を率いて駆けつけて、孫権の危急を救いました(68)。

 長らく荊州の守備についていた関羽が、樊城の魏将曹仁を攻めるために出陣しました。これは、魏と呉が手を結んで荊州を攻めようとしている情報を受け、孔明が魏軍の出端をくじこうと関羽にそう指令したものでしたが、何とこのことは呉の参謀歩隲の読み筋通りでした。都督呂蒙も孫権に勧めて、この機に荊州を攻めとろうとしますが、かんじんな時に呂蒙は病気で引きこもってしまいます。これは関羽が荊州の変事を知るために各所に設けた狼煙台のために、うかつには荊州へ攻め込めなくなった呂蒙の仮病と見破った陸遜は、孫権に申し出て呂蒙の見舞に出かけます。
 そこで呂蒙に、「呂蒙が病気で引退したと見せかけ、後任の者は表面上、関羽にへつらうようにする。そうすれば関羽は油断して、攻め込む隙ができるでしょう」と言いました。呂蒙はさっそく陸遜に任を譲り、陸遜は関羽にきわめてへりくだった挨拶状を送ります。
 関羽は「孫権もバカな奴だ。陸遜のような青二才を大将にするとは」と見下し、呉をなめてかかって荊州の軍勢のほとんどを樊城攻めに集中しました。陸遜は即刻孫権に知らせ、呂蒙は兵士に商人の扮装をさせて、まず狼煙台を占拠して関羽の通信網を断ち切り、荊州城への入城を果たします(75)。樊城へは魏も徐晃を加勢に派遣し、完全に孤立した関羽は呉軍に捕われて処刑されました(77)。

 劉備の報復をおそれた孫権は、関羽の首を魏へ送ります。曹操は王侯の礼をもって葬り、「あくまでも悪いのは呉ですよ」と演じてみせますが、やがてこの天下の奸雄も寿命が尽きて死んでしまいます。あとを継いだ曹丕は献帝に譲位を迫り、ついに国を奪って魏王朝を建てます。劉備も再三辞退しましたが、曹丕に対抗して蜀で帝位に即きました。と、劉備はとたんに個人的感情をあらわにし、「関羽の弔い合戦をする」と言って呉に攻めかかります。
 これがものすごい勢いで、さらに呉にとってまずかったことは、無理な命令を出されたために、張飛の寝首を掻いた茫疆・張達の両名が呉に駆けこんで来たことです。孫権は対応に苦慮しました。
 歩隲が、「劉備が関羽の仇と考えている呂蒙は、関羽の霊にとり殺され、関羽を捕えた潘璋・馬忠のうち、潘璋は関興(関羽の子)に討ち取られ、馬忠は糜芳・傅士仁が首を持って蜀に降り、糜・傅両名は関羽の救援に行かなかったかどで、やはり処刑されました。残るは張飛の仇の茫疆・張達の両名だけです。彼らを蜀へ送ればよいでしょう」と進言したので、その通りにしました。しかし、劉備は、「今になって和睦などしたら、関・張二人の霊に、申しわけがたたぬ」と言い、「まず呉を滅ぼしてから、魏を討つのだ」とえらい勢いです。

 呉では(門+敢)沢が一族の命をかけて、陸遜を推挙しました。それまでは、どちらかと言えば脇役だった陸遜が、今度は大物として表舞台に再登場することになったわけです。『演義』はここで、陸遜の人物をあらためて詳しく紹介しています。陸遜はもと議という名でしたが、遜に改めました。後漢の城門校尉陸紆の孫、九江郡の都尉陸駿の子。身長八尺、美玉のような顔立ちで、鎮西将軍の地位にあります。
 ただちに召された陸遜は、「古株の臣将が私の命令をきかないと困りますので、文武百宮の前で任命してください」と願い上げました。孫権はその通りにして、陸遜を大都督・右護軍・鎮西将軍に任じ、婁侯に封じて宝剣(命令をきかなかったものをこれで処刑してよいとのしるし)と印綬を与え、徐盛・丁奉を護衛として出発させました。
 面白くないのは韓当・周泰ら古株の大将たち。敵側の劉備も陸遜が相手と知って侮り、馬良が、「陸遜の才能は周瑜以上です」と言って諫めたのに耳を貸そうとしません。さて、「戦って敵の首をいくつ取ってなんぼ」というのが将軍職の性格。韓当らは陸遜が、今のところはひたすら守っていずれ蜀が森の中に陣を移した時を待ちうけて、攻撃をしかけようとしているのが理解できません。たぴたぴ「出陣させてくれ」と求め、抑えられてはそのつど不満がつのります。やがて炎天を避けた劉備が林の中に陣を移します。韓当らは.「さあ今こそ出陣の時」と言い出します(83)。
 ところが陸遜は、「山間に殺気があるので、まだだめだ。伏兵がある」と言って出陣させず、これには護衛役の徐盛・丁奉までもイライラして打って出たがります。

 三日後、蜀の伏兵が焦れて姿を現しました。陸遜はこの時がくるのを待っていたのでしたた。「長期の陣で疲れの出たところを攻めるのこそ兵法の極意」と、孫権に近々蜀を破りますと手紙を送り、将軍たちもようやく陸遜がタダ者ではないことを知りはじめました。
 長江沿いに七百里に及ぶ長い布陣。魏のスパイがこれを曹丕に知らせると、曹丕は、「劉備は必ず敗れる。陸遜は劉備を追撃し、すると呉は手薄になるから、そこを攻めよう」と、曹仁に濡須を、曹休に洞口を、曹真に南郡を攻めさせようとします。
 一方、馬良から劉備の陣形図を見せられた孔明も、劉備の敗戦を予期しました。しかし、魚腹浦に十万の伏兵を置いてあるから大丈夫」と。さて陸遜は、末将の淳于丹に、南岸の蜀の第四陣に夜襲をかけさせ、蜀の備えを探ると、「私の計を見抜けるのは孔明だけだが、彼はここにいない。勝利まちがいなし」と言って、一同を集めます。彼の作戦は、蜀陣四十を一つおきに二十焼き打ちにするというものでした。
 時は初更(午後八時)、おりからの東南の風に火の手は天まであがり、蜀軍は壊滅して敗走。劉備は趙雲に助けられて白帝城に落ちのびました。陸遜は趙雲の名をきくと、ただちに軍に退却を命じましたが、これに従わない呉将朱然は趙雲に討ち取られてしまいました。蜀は傅丹・程畿・張南・馮習、そして蜀軍に協力した蛮王沙摩何が犠牲になりました。

 さて、陸遜は軍勢を整え西へ追い撃ちをかけましたが、魚腹浦に殺気を感じ、軍を止めます。ところが、念を入れて三度出した物見の兵は、いずれも「誰もいない。大石が八、九十ころがっているだけだ」と報告。自ら出むいた陸遜は、「目くらましか」と思って帰ろうとしましたが、烈風おこって砂石を飛ばし、石がそそり立って迫り、どうしても出られません。陸遜はようやく黄承彦(孔明の舅)に出してもらい、「孔明は本当に『臥竜』だ。私はとてもかなわない」と、全軍に引きあげを命じます。「あまり深追いしては、魏の動きが心配だ」と言った二日後、曹仁・曹休・曹真の動きが伝えられましたが、陸遜は、「もう手はうってある」と高笑い(84)。
 陸遜が蜀との戦いに勝利したのは章武二(二二二)年夏六月のことでした。さて、魏の曹仁に対しては朱桓が、曹休には呂範が、曹真には諸葛瑾が、それぞれ備えていました。曹丕は、「備えがあっては、お出ましになられましても無駄かと・・・」という劉曄の言葉をきかずに、自ら軍を率いて出ましたが、三方面とも敗れ、また疫病が蔓延したため、結局、軍を退きました。

 やがて章武三(二二三)年夏四月二十四日、劉備が白帝城の永安宮で病死(85)。曹丕はこの機に乗じて、司馬懿の献策により、五方面の軍を繰り出して蜀を攻めつぶそうとしました。呉もそのうちの一つとして、「蜀を取ったうえは折半しよう」という条件で軍を出すよう要清されました。
 陸遜は輔国将軍・江陵侯・荊州の牧として軍権を握っていましたが、孫権から相談されて、「逆らうわけにもゆかないので、一応承知しておいて、あとの四方面のようすを見て、魏が勝つようなら攻め、魏が敗れたなら、また別の策をたてましょう」と答えました。かくて孫権は魏の使者に、「吉日をえらんで出発する」と答えましたが、探れば四方面いずれも敗れ、あるいはうまくゆかず、孫権は「さすがは陸遜」と言います。
 さらに蜀の使者ケ芝がみごとに孫権を説得し、蜀と呉とは劉備在世時代のうらみを忘れて同盟を結びます。これを怒った曹丕は、侍中の辛(田+比)の諫めもきかずに親征に出ました。これを迎え撃ったのは徐盛。陸遜は荊州の政務で手が離せませんでしたが、徐盛は藁人形と書き割りの城壁を並べ立てて曹丕の度肝を抜いて勝利しました(86)。南征に出発する孔明が、白帝城を守る李厳について、「彼は陸遜にもひけを取らない人物」と評しています(87)。

 のち、魏は代がかわって曹叡の時代。呉の番陽の太守周魴が、曹休に「郡を献じて降りたい」と言ってよこしました。むろんこれは策略ですが、司馬懿が「知ってて乗ってみてもよい話ではないか」と判断し、また周魴も髻を切って曹休を信用させたので、いよいよ大がかりなことになります。当然のように幕臣の顧雍が、「陸遜でなくては」と言い、陸遜の出番となります。
 陸遜は朱桓と全jを推挙し、三方面に分かれて魏軍迎撃に出ます。さらに諸葛瑾に江陵の守備を命じて司馬懿に備えさせ、用意は万全。石亭に伏兵を置き、朱桓・全jに曹休の背後から火を放って夜襲をかけさせて大勝利。孫権は凱旋した陸遜に絹の傘をさしかけてそろって入城し、全軍をねぎらいました。陸遜は祝勝の宴席で「魏は敗れて胆を冷やしています。蜀に国書を送って、孔明に軍を出させましょう」と孫権に進言します。ただちに使者が蜀に向かいました(96)。

 今回の戦は蜀の建興六(二二八)年秋九月のことでした。孔明は呉からの国書を受けて、「後出師の表」 を奉って軍をおこしましたが、陳倉の守将赦昭に敗れ、うまくゆきません(97)。さて、魏の司馬懿も陸遜の手腕を高く評価し、彼の動きに備えるためというのを理由に動こうとしません。もちろんこれは、魏には曹真らの豊富な人材があるために、孔明に対して守るだけなら人材にこと欠かないということでもあります。
 やがて黄武八年改め黄竜元(ニ二九)年、孫権も帝位に即きます。孔明はこれに祝賀の使者を送って友好関係を保ち、魏討伐の軍を出させようとしましたが、陸遜は、「司馬懿をおそれる孔明の策略です。一応軍を出す構えをとり、孔明が魏をきぴしく攻めたてて、魏に隙が生じたら、そこを攻めましょう」と孫権に言い、荊州の軍の教練を始め、触れだけは「出陣」「出陣」ととなえて、要するにまたも模様見。
 これは司馬懿の分析によれば、「孔明は劉備の敗戦を忘れたわけではなく、いずれは呉の征伐も行いたいのだが、今のところは我々魏と戦うために、呉と友好を結んでいる。陸遜もそれは承知だから、本気で軍を出しはしないで、ようすを見でいるはず」とのことでした(98)。
 孔明と司馬懿はしばしば対陣しますが、なかなか決め手がありません。孫権は蜀の使者費偉がもたらした孔明からの要請を受けて、自らも軍を率いて魏討伐に出ることを約束。当然、陸遜にも出陣が命ぜられました(102)。

 対する魏は、曹叡が親征をして迎え撃ち、参謀として従った満寵の作戦で呉の水上の陣に夜襲をかけて諸葛瑾を破りました。陸遜は孫権に、「合肥新城の囲みを解いて軍を転回し、魏の退路を断ってくれるように」との作戦を届けさせようとしましたが、使者の将校が魏の伏兵に捕われてしまいます。曹叡はその作戦書を見て、「陸遜は何というおそろしい奴だろう」と感嘆しましたが、陸遜は作戦が漏れたことを知って、すでに引きあげる意志を固めていました。しかし、魏にそれを知られては、と陣の外で豆を栽培させたり、弓術比べなどをして、ゆるゆると引きあげるつもり。その前に、一度、攻めかかるぞと見せることも忘れなかったので、曹叡が気づいた時には、呉軍はあとかたもなく引きあげたあとでした。
 曹叡は、「孫子、呉子にも劣らぬ兵法家だ。陸遜がいては呉の平定は難しい」と語りました。やがてこの知らせをきいてガックリとした孔明は自分の死期をさとり(103)、五丈原に陣没しました(104)。孔明の好敵手の司馬懿も、クーデターをおこして曹爽一味を誅滅しましたが(107)、魏の嘉平三(二五一)年秋八月に病死。その年は呉の大元元年にあたりますが、同じ秋八月一日、台風に驚いた孫権は病の床につき、翌年(二五二年)死んでしまいます。これより前に、陸遜・諸葛瑾はすでに世に亡く、諸葛恪(瑾の子)が全権を握っていたと記されています(108)。のち、彼の子の陸抗が鎮東大将軍として登場します(119)。

*『呉志』陸遜伝によると、孫権の後継者争いにやぶれ、陸遜は遜権から問責の使者を受けて悶死しています。『演義』はそのことに一切ふれず、そのためにほぼ理想的な主君であり、臣下であるように描かれることとなりました。


 非常に長い経歴です。もう何も書く気が無くなってしまいました・・・。