大尉楊彪の子です。狂士禰衡が荊州の劉表配下の将黄祖に、「いま人物は孔融と楊修だけ」と話した時、名前だけ見えています(23)。
眉は薄く目は細く、色白で整った風貌。博学多弁で、倉庫の主簿として物語に登場し、曹操の人物を見きわめにきた蜀の張松と弁をたたかわしますが、軽くあしらわれます。それでは、と曹操の著書『孟徳新書』を読ませますが、一読暗誦されて驚き、一度曹操を怒らせてしまった張松に、曹操との再度の対面を設定してあげます。しかし、張松はそこでも曹操の怒りを買ってしまい、楊修は命乞いをして死一等を減じてもらいます(60)。「曹娥の碑」の「黄絹幼婦、外孫韲臼」を「黄絹」は「色糸」で「絶」、「幼婦」は「少女」で「妙」、「外孫」は「女子」で「好」、「韲臼」は「辛(香辛料)を受けるもの」で「辞」、すなわち「絶妙好辞」と解いて感嘆されます(71)。
漢中をめぐる劉備軍との攻防戦のらちがあかない時、曹操が言った「鶏肋(食べられないけどスープがとれる)」を陣払いの意と夏侯惇に教えて、怒った曹操に打ち首にされてしまいます。その際、曹操が門に書きつけた「活」を「闊」の意と解いたとか、「一合の酥(チーズクリームのようなもの)」の「一合」を「一人一口」と読んで皆で食べてしまったとかの逸話が紹介されています。さらにまた、暗殺をおそれた曹操は一計を案じ、「人を殺す夢をよく見るので、近づくな」と言っておいて、わざと蒲団を落とし、かけなおそうとして近づいた近侍の者を斬り殺します。曹操はあとで夢からさめたふりをして驚いてみせ、手厚く葬らせました。楊修は埋葬の時、「丞相が夢を見ておられたのではない(曹操は眠っていなかったのだとの指摘)。君が夢を見ていたのだ」と暗殺者が近づくのを牽制しようとした曹操の真意を見抜いていたこととか、曹操の三男曹植のために模範解答集を作っておいたとかの逸話も、まとめてそこで物語られます。享年三十四歳でした(72)。
*『後漢書』楊震伝に付せられた楊修の伝および『魏志』陳思王植伝によれば、曹操が楊修を始末したかったのは、楊修が袁術の甥にあたるという姻戚閑係にあったためだ、とされています |