人間一個人なんて、一体どれほどの価値を持つものだというのだろう。所詮は大きなイデオロギーの中で、惨めに存在するちっぽけな存在でしかないと私は思う。
人間の根元的恐怖は、存在の消滅。
自分というかけがえのない命が、取返しがつかずに失われてしまうこと。
そして自分という存在が無に帰してしまうこと。
だからこそ、私たちは永遠を求める。
実在を支えるのは永遠という概念。永遠でない必滅のものに実在は求め得ないと思う。
そして、私たちは誰しもが肉体の必滅を知っている。
だから私たちは必滅ではないもの、つまり、永遠に通じる可能性のあるものを求める。
それは「魂」に他ならない。
ほんの五十年前には、世界中が戦争の惨禍に包まれてた。
戦争とは、一つのイデオロギー装置を作り上げることに他ならない。
私たちの住む日本で言うならば、それは挙国一致政策であり、大東亜共栄圏の建設。
国民の大多数は、それらのイデオロギー装置を構築する一部品であって、それ以上の意味は持ち得ない。
イデオロギーの中で個人が死ぬ。
前の例で言うならば、大東亜共栄圏建設のために若い青年たちが多くの生命を失うということ。
その若者たちの死は、どのような評価を受け得るだろうか。
おそらく・・・今の私たちの目には、大東亜共栄圏建設という、非常に愚かなイデオロギーに殉じた不幸な死としか認識されないと思う。例え彼らが、自分たちの信じる正義の元に命を落としたのだとしても。
人間の魂は、普遍なんかじゃない。
魂はイデオロギーに吸収されて、それはイデオロギーの変容によって姿を変えられてしまう。
歴史とは、多くの人間の恨みが蓄積したもの。
理不尽の元に殺され、権力に踏みつぶされ、憎しみに心を焼かれた人々の呪い。
しかし、私たちは歴史を死んでいった人々の視点から眺めることは出来ない。
それは、彼ら個人が大きなイデオロギー装置の中に吸収されてしまったからだ。
私は天を呪わずにはいられない。
なぜ私たちはこれほどまでに無力なのか。
私の死もまた、イデオロギーの中に吸収されて変容していくに過ぎないのだ。
永遠を覗くなんて、決して叶わない。
だけど、たった一つだけこの問題を解決する方法があると思う。
私たち人間は、人の心の中で生きていけるということ。
歴史に名前を残しても、結局はイデオロギーの変容の影響を受けなくてはいけない。
だからこそ、残された人たちの心の中で生きていくことだけが唯一の方法なのだ。
人の心の中で、幻想として存在し続けること。
結果的には無意味なことかもしれないけれど、無力な個人が魂を永遠にするためにはそれ以外に道は無いと思う。
劉備はそれを私に教えてくれた、大切な人。 |